前田佳那
我之所以参加北京研修是因为在2012年初秋海外研修说明会上,一位曾参加过北京研修的我校高中毕业生说:“中国是日本的邻国,与日本有着密切的关系,但是我们往往只能通过媒体报道了解中国。我感觉这事不正常。”
12月21—23日
这3天我离开日本到达北京,与民宿家庭一起度过。3天里我彻底切断了与日本的联系。我总结以前研修的教训,告诉自己不要胆怯,要主动对话。
周末两天我们去了北京的市中心,观光了地铁、街道、购物商场。当然,这里都是中文的世界。不会中文的我也不能像听英语听力那样,只能环顾四周。但是也因此,增强了我想接受信息的想法。
22日,我同民宿伙伴和她的同学来到南锣鼓巷。长长的胡同里一家挨着一家的杂货店、饰品店,摆着年轻人喜欢的物品。顾客中也有很多外国游客。起初我想,这样对古街道、古建筑物的现代改造一定有人持有疑义,对此我也有同感。但是目睹了南锣鼓巷热闹的景象,我觉得人们通过这种方式延续“古老”也是件好事。胡同里有好多日本料理店和日本快餐店,使我感到很惊讶(因为在日本曾听说,在北京的日本料理店被破坏不能营业)。从同伴的热心介绍中我觉得日本料理店在当地还是很受欢迎的。
之后我们去了民宿伙伴的爷爷家。爷爷家在从南锣鼓巷坐公交10分钟左右,下车走不远的一片旧住宅小区里面。好像是中国式的“长屋”,住房延伸到外面,分不清室内室外。爷爷是个很温和的人,从我跟他打招呼,以及他和孙女谈话时的表情中,我感到了温暖。
23日基本是在民宿伙伴家度过的。我还清楚地记得,在帮家人做晚饭的时候,感受到家里的气氛那么温暖、那么和谐,我不禁流下了眼泪。
我深深感到每一个接触过的人都很欢迎我,而我有幸融入与他们的交流当中,是我最宝贵的经历。
说实话,我对这个时期访问中国心理上有些不安,而且以前我很理解对中国修学旅行不是很积极的高二学生们的心情。但是通过这两天,我深感亲身经历是多么重要,同时觉得“只有一周的交流能知道什么”这种想法并没有道理。
例如,当听到中文的时候,很少有日本人能像听日语一样作为“语言”认识信息。日常中对不熟悉的语言,听上去一定只是一种单纯的声音。但是经过这一周在中国话里的“浸泡”,我对在日本电视上讲话的中国人开始有一种亲近感,虽然其中的意思只能通过字幕或者画面内容推测,但是以前存在于“语言”与“声音”之间的墙壁变得非常薄了。
同时,结识的中国朋友也是我此行的收获。有朋友就意味着拓宽视野、增长见识,异国的朋友更可以加深两国之间的理解与尊重。
我自己都没有想到,通过这次交流我会在思想上有如此变化。今后我会珍惜像这样的交流活动,继续参与。
北京古观象台
北京古观象台是我一直想去的地方。
它建于明朝,是望远镜发明之前的天体观测器。我在一份天文杂志的一角看到观象台的介绍时,最吸引我的是它的形状。在这份杂志上刊登了一张小的黑白的古观象台相片,虽然相片不起眼,但是用环组成的浑天仪和弓箭样的方位经纬仪,在我看来代表着古代天文学,我敢断言没有比这更理想的形状了。以前在相片上看过的天球仪或六分仪,都是可以两手操作的小型仪,虽然在设计上都很合理,但是缺乏在北京古观象台操纵比自己身高还高的天体观测仪的那种成就感,我想这才是天体观测真正的乐趣。
从相片看,北京古观象台建在城墙上,十分壮观。但让我有些吃惊的是,想象中观象台应该是在一个不显眼的地方,没想到是在大街中央,而且通往屋顶的白色石台阶非常漂亮。
我小学学校的操场上有一个日时仪,所以很幸运自己在上小学时就有机会接触它。但来之前我不知道古观象台上也有日时仪,所以非常遗憾这次没有看到。
而在日本,尾藤制作所于昭和六十三年(1988年)将制作精美的三体天球仪赠送给岐阜县,这加深了我对古观象台的亲近感。
古观象台的天球仪怎么看也不像是可以轻松旋转的,在它的右上方可以看到有类似轴一样的东西,天球仪一定是围绕这个轴慢慢地旋转。它就像一个大大的巧克力球。真想一下跳进围栏,更近距离地观看。
心を旅する
北京研修に参加した動機は、2012年初秋の海外研修説明会で「中国は日本の隣にあって最も関わり合いの深い国なのに、メディアを通してしか私達は中国のことを知らない。それって凄くおかしいことだと思った。」という、北京研修に参加した渋幕OGの方の話を伺ったことに始まります。
12月21日—23日について
この期間というのは、私達が日本を出国して北京に到着し、ホストファミリーと休日を過ごした3日間になります。そして、ほぼ一切を日本人から遮断した期間でもあります。私は以前の研修の反省から、臆せずに色々なことを話してみようと心掛けました。
休日の二日間は、どちらも北京市内に出掛けました。地下鉄、街中、ショッピングセンター。当然のごとく、そこかしこが中国語の世界です。中国語のわからない私は英語の聞き取りのように必死で耳を澄ましていることもできずにただ、周囲を見回していました。しかしそのことは逆に、あるものを吸収しようとする意志を助けたのではないかと思います。
22日、私はステイ先の月壇中学校の生徒さんとその友達2人に案内されて”南锣鼓巷”という場所を回りました。縦に長く走る古い通りの中のひとつひとつに、雑貨店や飲食店など、現代の若者向けの店舗が連なっていました。外国人の観光客も決して少なくはありませんでした。伝統のある建物の内部を現代的に改装してしまうことに抵抗を覚える人もいるだろうし、私も少なからずそう考えてはいました。けれども、南锣鼓巷の賑やかな様子を見て、そういった形で様々な人々が”古さ”に触れ続けられるのも良いことではないだろうかと思いました。また、日本料理店や日本的ファーストフード店などが点在していたことにも驚きました(日本料理店が破壊されて営業が出来なくなった、等の報道を耳にしていましたから)。3人が熱心に説明をしてくれたことから、地元の人々にも親しみがあるのだということが感じられました。
その後すぐに、月壇中学校の生徒のうち一人のお祖父さんの家を訪れました。それは南锣鼓巷殻10分ほどバスに乗り、路地を歩いた先にある古い住宅街の中にありました。中国風の長屋のようであり、屋外と家の中の境目がでない玄関を持っている家でした。お祖父さんはとても優しい人で、挨拶をかわしたとき、お祖父さんにとって孫であるその女の子とじゃれているとき(お祖父さんとその子はとっても仲良しでしたから)、表情から温かさが滲み出ていました。
23日は主に、私がホームステイをしていた家の中で過ごしました。夕食の手伝いをさせていただいた折に、その一家を包んでいる空気があまりにも暖かくて団欒としていることをふと感じ、訳も分からず泣き出してしまったことが思い出されます。
会う人が皆、私達のことを歓迎して下さっていたのだということを強く感じました。そして身近なコミュニケーションの場に混ざれたことは、とても重要な経験になりました。
正直なことを言うと、この時期に中国へ行くことに対しての不安はいくらかありました。それに高2の中国修学旅行に対して積極的でない生徒にも、以前なら共感できました。けれどこの2日間を通して、私は”実際に訪れる”ことがどれほど大切であるかを実感しました。たった一週間そこらの滞在で何がわかる、という姿勢でいることは非常に勿体ないと思います。
例えば多くの日本人が中国語を耳にするとき、それが日本語と同じように”ことば”であると認識できる人は少ないでしょう。日常的に親しまない言語はきっとただの”音”に聞こえてしまう筈です。しかし一週間中国語漬けの生活を送った結果、日本のTV番組などでスピーチをする中国の人々に親近感を覚えるようになったのです。もちろん日本語の字幕なしではそこで話されている内容を推し量ることさえできませんが、かつて存在していた”ことば”と”音”の壁が極端に薄くなったことは間違いありません。
同じように、中国に友達ができた、ということも非常に大事な収穫です。友達を持つということは、即ち見聞が広がるということ。それが国境を超えた関係であれば尚更、お互いの国に対する理解を深めると同時に一人の人間としてのお互いに対する理解と尊敬の念を成長させていく努力をすることができるでしょう。
私自身も、今回の北京研修においてこれ程までに自分の意識が変化するとは思っていませんでした。
これからも今回のような機会を大切にして、交流を続けていきたいと思います。
北京古観象台
私が北京を訪れる際に一度、どうしても行きたかった場所でした。
北京古観象台に置かれているのは明朝時代、まだ望遠鏡が発明されていなかったころに作られた天体観察器具です。私はある天文雑誌の堅炭に見つけたのが観象台を知ったきっかけで、惹かれた天といえば主にその形状でした。掲載されていたのは小さなモノクロ写真であったものの、環の組み合わさったこんてんぎや弓矢のようにも見える方位経緯儀など、古代天文学と聞いて私が思い書く理想の形を、これ以上のものはないだろうと断言できるほど満たしていました。以前に見たことのある天球儀や六分儀などの写真では、それらは両手のみで操作することが可能なほどコンパクトなものばかりでした。それが合理的である場面ももちろん数多いとは思いますが、北京古観象台の天文観測器具のように、自分の身の丈以上もある大掛かりな観測器具を無我夢中で動かしているときの集中力やら達成感やらこそが、天体観測醍醐味ではないかと(真に勝手なことに)私は信じているのです。
城壁の上に木木が設置されているのが、いかにも気象台然としていて良かったです。もう少し目立たないものを想像していた身としては、街中に突如出現した観象台に少々驚きました。
屋上に上るための白い石造りの階段が綺麗でした。
私の在学していた小学校には日時計が設置されていたので、幸運にも私は小学生にして日時計と親しみを持っていました。日時計が設置されていることを事前に知っていなかったために、じっくり見られなかったことが残念です。しかし、上記の理由、そしてビトー三体天球儀を製作した尾藤製作所も昭和63年に精巧な日時計を岐阜県内に寄贈していることも相まって、観象台への親近感が一気に深まりました。
とても、くるくると軽快には回りそうにない天球儀でした。器具の右上に軸のようなものが見えるので、きっとそれを中心にゆっくりと皆伝させられるのでしょう。チョコレートのような形でした。
左の写真を拡大して球体の表面を注意深く観察すると、星の並びのようなものがあるのがわかります。更に、それは掘れれているのではなく突起になっています。いっそ立ち入り禁止の柵を飛び越えて、寄り近くてお目にかかりたいとしばしば思ったうちの一つには変わりありません。
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