コミュニケーションは、人間生活にとって不可欠である。それは社会の紐帯であって、それなくしては人間社会も人間の生活自体も成り立たない。そもそも人間世界は解釈を待つ自然科学の世界とは異なり、主観的世界で、常にその構成員によってすでに解釈され、理解された世界である。物事に対する特殊な理解、解釈、価値付け、対応の仕方が、それぞれの社会には常にすでに存在している。それはコミュニケーションによって媒介されて存在する文化的社会である。これは人間が意味論的存在だからである。そしてこれこそが文化と呼ばれるものではないだろうか。
文化とコミュニケーションは同じではないが、不可分である。だからどのような人間コミュニケーションも、文化の影響から逃がれられない。普遍的な文化が概念的に矛盾をはらむ限り、普遍的なコミュニケーションは不可能である。すべてのコミュニケーションは、複数の個人あるいは個人からなる集団が共通の場に立とうとする、普遍への努力の一表現でしかない。しかもこの目標に達する手段としてコミュニケーションは微弱であるが、それ以外の手段を人間は持ちあわせておらない。そこで人は、いとも自然にコミュニケーション行為によって自閉的、独我論的状況からオープンな対話的世界へと橋を渡そうとするのである。
文化とコミュニケーションの関係を理解することは、全てのコミュニケーション研究にとって、特に現在のように情報機器と情報システムの開発が世界化現象とともに加速化される時代には、それらの後を常に追いかけるような状況から逃れるためにも必須のことである(古田1999)。
21世紀は異文化間のコミュニケーションの時代と言われ、語学教育では、異文化間コミュニケーション能力の開発が要求されてきて、言語の実際運用能力を習得することに目標を置いている。円滑な異文化間コミュニケーションを営むため、伝達手段としての日本語を適切に使える文法能力が求められるが、そのコミュニケーションの背景となる社会的場面での適切な理解と行動も同時に求められている。
「あいさつ」はコミュニケーションの第一歩として、もっとも基本的、代表的なものである。日本社会、日本文化への理解を深化し、日本人とのコミュニケーションのコツを把握するために、日本の「あいさつ」を徹底的に究明し、同時に他国と比較しながらまとめなければならないと考えられる。
データの収集方法として、データの多様性と一般化可能性の両方を合わせて配慮したうえで、テレビドラマをデータの収集対象とすることが会話やコミュニケーションの研究で行われている。熊谷(2003:11)は「テレビドラマでは、場面のバリエーションが豊富なだけでなく、やりとりの形になっているので、定型的な感謝や謝罪の決まり文句以外のストラテジーも含めた言語行動の展開例が収集しやすい」と指摘している。テレビドラマの言葉は日常の言葉の特徴を反映していると同時に、日常の言葉にかなり影響を与えていると言えよう。
免责声明:以上内容源自网络,版权归原作者所有,如有侵犯您的原创版权请告知,我们将尽快删除相关内容。