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「守三尸」

时间:2023-03-29 理论教育 版权反馈
【摘要】:王建康室町时代至江户时代初期的大众短篇小说被称为“御伽草子”,初见于江户享保年间大阪出版商涩川清右卫门出版的收有23篇短篇小说、取名为《御伽文库》的丛书。长期以来,不少日本文学家,包括民俗学者对此作了种种探讨,至今未有定论。従って「御伽草子」という名称は、たまたま本屋が付けた名称ではない。

王建康

室町时代至江户时代初期的大众短篇小说被称为“御伽草子”,初见于江户享保年间(1716~1736)大阪出版商涩川清右卫门出版的收有23篇短篇小说、取名为《御伽文库》的丛书。至江户初期,多有小说名称冠以“伽”字,如《御伽物语》,《新伽》等。显然“御伽草子”并非涩川清右卫门随意首创。“草子”意为“小说、读物”、那么御伽草子的“伽”究竟是什么意思呢?长期以来,不少日本文学家,包括民俗学者对此作了种种探讨,至今未有定论。本论文注目于日文汉字“伽”的“与人杂谈以驱除睡意,通宵达旦”的字意,从道教“守庚申”、“守三尸”的角度对此进行了探讨。

「御伽草子」とは室町時代から江戸の前期にかけて作られた大衆短編小説の名称で、最初に現れたのは享保頃、大坂心斎橋順慶町の書肆澁川清右衛門がこれらの小説の中から二十三篇を選んで刊行した作品群にある「御伽文庫」という刊記である(「草子」は冊子、小説の意)。この時代の読み物には、室町時代物語、室町時代小説、近古小説、中世小説といろいろな名称があったが、総じて「御伽草子」と称される。(『俚言集覧』(1797~1829)に「御伽草子 二十三部、いにしえ此の双子を婚礼の道具とせしと也」、『群書一覧』(1801)に「御伽草子 二十三巻 一名御伽文庫といへり」と記載している。なお、江戸初期には『御伽物語』、『お伽婢子』、『新おとぎ』など「伽」を書名にする読み物も多く見られる。従って「御伽草子」という名称は、たまたま本屋が付けた名称ではない。)写本、活字本を含め500種にも達するという。

ところで、「御伽草子」の「伽」はどういう意味なのか、なぜこの時代の小説を「御伽草子」と名付けたのかは、今まで先学たちが議論してきたが、定説には至っていない。本論は「御伽草子」の「伽」の意味を中国の道教という宗教的視野から探ってみたい。

「伽」という字は邦字である。この字の初出に関して桑田忠親氏1が次のように指摘する、

我が古典にお伽の語が現れるのは、鎌倉末期のことで、『上野君消息』や、『源平盛衰記』巻四十三の初見。ついで、『増鏡』にも見える。しかし、お伽に関する具体的なことが出てくるのは室町時代であって、『教言卿記』の応永十五年六月の条に、足利三代将軍義満のお伽のことが見える[1]

「伽」の字義に関しては、『天正節用集』(1590、室町時代の国語辞典、江戸時代に改編増補)に「伽 人伴」と記したようにその原義は「相手」である。『日葡辞書』(1603)には「togui(トギ)、ただ一人でないように或る人が他の人の相手をすること」と解釈している。つまり、一人では寂しいから、その人が寂しくならないように相手をしてやるということである。『時代別国語大辞典(室町時代)』(三省堂、1985)には「人の相手をしてその無聊を慰める、またその役を務めるもの」、さらに『大漢和辞典(修訂版)』(大修館、1989)には「人のつれづれを慰めること、その人、陪伴」と説明している。では相手の「無聊を慰める」には何をするかと言えば、やはり相手に「話(咄)、以下、「咄」と書くー執筆者」をかけることが欠かせない。従って俳諧類語集『俳諧類船集』(1676)に「伽 貴人の前、月待ち、日待ち、咄」と記載され、「伽」が「咄」の付合語となっている。では、どんな場所で相手に話をして「無聊を慰める」のか、『和漢三才図会』(1713)にある「伽 俗以宿直伴人曰伽」のように、すなわち夜交代で泊まり込む官庁、公家、武家などである。勿論「宿直」は夜寝ないで行動することである。意味深いのは『日本方言大辞典』(小学館)には「伽」の意味として「通夜」とあげている。西日本の各地では「通夜」を「夜伽」という言葉で表現する[2]。ちなみに室町時代には、通夜に出る通夜僧は「お伽坊主」と呼ばれる。つまり「伽」には「夜寝ない、徹夜する」という意味がある。以上の諸々の解釈をまとめて考えると、「伽」の意味については、とりあえず「宿直」のような公的場所で、いろいろな話をして眠りをしのぎ、相手のつれづれを慰めることとまとめられよう。

現実に室町時代には、公家、武家、さらに皇室にまで、「お咄」専門で大いに活躍する職人がいた。お伽衆たちである。特に戦国時代に、将軍、大名らは数多くのお伽衆を抱えていた。『大内氏実録』(1885)によると、大内義隆は天分年間にお伽の職制を作り、淡路彦四郎以下二十三人を御伽衆に任じている。秀吉の御伽衆は八百人ほどいたという説もある。御伽衆はもともと武家、儒家、僧侶、神官、医者、能役者、茶匠、講釈師、山伏などの出身で豊富な民間の伝承、文芸知識を生かし、将軍、大名などの「貴人」の話相手を務めた。

檜谷昭彦氏は、御伽草子の成立について「単なる文学的な趣味、関心からばかり出てきた要求ではなくて、中世という時代における宗教的要請もあった」と指摘する[3]

民俗学者の折口信夫氏が曰く、『「伽」といふ字は、仏家ではghaといふやうな有気音―激―を示す字である。即、ぎやあといふやうな音である。これは無明の闇に集く魔厭を逐ひ払ふ音である。「伽」の字、この音に宛ててゐる意味は訣る。侍者が、夜陰に乗じて来ようとするものを逐ふ為に発するこわずくろひ、又は鳴弦の類と、考へを一つにするものなることが知れる。』さらに折口信夫氏は『「はなし」の方はおとし咄のような稍稍滑稽がかったもの、「御伽」の方は妖怪談のように稍稍恐ろしいものを対象としている。』と述べている[4]。つまりお「伽」は魔物払いの宗教的意味を有する。

普通考えれば、人が集まって物語の咄をして楽しむのは、別に昼間、夜にこだわらないはずだが、「伽」の「咄」をする時間帯は「昼間」ではなく「宿直」の「夜」に限定し、なおも、徹夜で、眠気を覚ますための「怪談のように稍稍恐ろしいもの」を語らなければならないのは(御伽草子に怪異談類の作品が多数あるのは、そのためと考えられる)、眠ったら何か怖いことでも起きるというタブーが存在し、それを払わなければならないと思われてならない。そこに「御伽草子」の宗教的原点がうかがえる。

お伽衆たちはもともと咄を語る場は、まさに「庚申待」という宗教活動の場所であった。

「庚申待」は中国道教の「守庚申」に由来する。庚申とは干支、十干十二支の庚申(かのえさる)にあたり、庚申の日は年に六度ある。その日の夜は、夜明けまで、雑談をし、歌を作り、徹夜をする。なぜその夜、寝ないのか、それはまた道教の「守三尸」と関係する。

中国では後漢に三尸説が現れた。人間の体に彭倨、彭質、彭矯という三種の虫がいて、「三尸虫」という。この「三尸虫」は庚申の日に、人の寝ている間に天に昇って、天帝にその人の罪状を告げ、早死させる。対策としては、その日の夜に、その人が眠らずにいれば三尸虫の昇天を妨げ、寿命が保てる。これが「守三尸」である。後漢の『太平経·巻九十二』にはすでに「腹中三虫」があり、道教の理論書、晋の葛洪撰の『抱朴子』(内編·微旨)には、

《易内戒》、《赤松子经》及《河图纪命符》又言身中有三尸。三尸之为物,虽无形而实魂灵鬼神之属也。欲使人早死,此尸当得作鬼,自放纵游行,享人祭酹。是以每到庚申之日,辄上天白司命,道人所为过失。

と説明している。後に唐の道書『太上除三尸九虫保生経』、『道蔵』庚申部などに三尸説に関する詳細な叙述が多数見られる。

魏晋時代に「守三尸」は、すでに道教の必須の修行方術となっている。唐、宋には道士のみではなく、世間の一般庶民の中でも「守三尸」が大変流行っていた。唐段成式撰《酉阳杂俎》卷二には、

庚申日,伏尸言人过,本命日,天曹计人行。三尸一日三朝,上尸青姑伐人眼,中尸白姑伐人五藏,下尸血姑伐人胃命。……七守庚申,三尸灭,三守庚申,三尸伏。

と人々は一回で済むのではなく、七回も「守庚申」を行う熱心ぶりを描いている。

「守庚申」、「守三尸」は、およそ八世紀末頃に中国から日本の皇族、貴族に伝わってきて「庚申御遊」とも呼ばれ、宮廷で盛んに行なわれた。

平安時代の宮中儀式を記録した『侍中群要』(11世紀後半)、『西宮記』(914~982)には、「御庚申」、「御庚申御遊」の項が多く見られる。『古今著聞集』(1254)の巻六には村上天皇の天暦七年(953)十月十三日の「御遊」の様子を記載している。このような宮中の「庚申待」は室町時代まで続いたという[5]

『泰重卿記』の慶長二十年(1615)一月十三日の条には、当時の皇室はお伽衆たちを召して庚申待を行った記録も残っている。

庚申也。従院卿所召す。院参。其以後従禁中召。参内。則二月ヨリ御稽古、諸芸共ニ、其内予ハ御読書·御手習·御連哥之御人数に被加也。楽·御謌会ハ重而望可申候也。此夜夜明之時分退出也。自他御とぎ衆苦疲也。

「此夜夜明之時分退出也。自他御とぎ衆苦疲也。」徹夜主君に咄をし、歌を作り、さすがの彼らも疲れ切った様子が記録されている。

室町時代に「庚申待」は将軍を中心に行われた。『常徳院御殿集』には、文明十五年(1483)「廿八日庚申に二百首題をさくりよみ侍りしに」という序のついた和歌が書かれている。また、『義残後覚巻一』(1596)には、

あるとき、信長公庚申待ちをし給ひけるに、お伽の人々には柴田修理のすけ、滝川一益、佐久間、明智光秀をはしめとして、諸士二十人計御ときにて、夜もすからしゅえん乱舞にあそひ給ふに

と記載されている。室町時代には「庚申待」は皇族、将軍ばかりでなく、さらに民間にまで広まった。

将軍を中心に行われた庚申待の夜、お伽衆たちは主君にさまざまな民間伝承の咄をする。その時点では文芸というよりむしろ眠気を覚まし、三尸虫の昇天を妨げ、寿命を保つための宗教的需要(要請)があったに違いない。延命のため、咄などをして夜の眠気を避けるというのは、まさに庚申待、さらにその由来である道教の「守三尸」という宗教活動の最大の特徴である。それは今まで御伽草子の「伽」の意味を検討する際に、完全に見過ごしている、道教に因んだ宗教的原点というべきであろう。

中国では唐、宋になると、道教の「守庚申」、「守三尸」は仏教化した。北宋の賛寧撰の『僧史略·巻下』には次のような記述がある。

近闻周郑之地,邑社多结守庚申会,初集鸣铙钹,唱佛歌赞,众人念佛行道,或动丝竹,一夕不睡,以避三彭奏上帝,免注罪夺算也。然此实道家之法。往往有无知释子,入会图谋小利,会不寻其根本,误行邪法,深可痛哉。

賛寧は「实道家之法」である「守庚申」が、「鸣铙钹,唱佛歌赞,众人念佛」、いわゆる仏教法事のような営みには,道教の本源、根本を無視し、「误行邪法,深可痛哉」と批判した。

「守庚申」は日本に伝来して、十四世紀までは宮中の皇族、貴族たちにそのまま呼ばれていた。そして、「守庚申」は道教の「三尸」説から由来する意味も理解されていた。

平安初期の官人、菅原道真(741~814)が『菅家文草』巻三に書いた「同諸小児旅館庚申夜賦静室寒燈明之詩」には「旅人毎夜守三尸。況対寒燈不臥時」、また巻四の「庚申夜述所懐」に「為客以来不安寝。眼開豈只守三尸。」の句が見られる。

同じ平安時代の文人である大江匡衡一(952~1012)は、詩集『江吏部集』(1011)に「初冬十月幽閑後、風客五人談話時、相議今宵題一絶、亦期守明日三尸。」など「守三尸」と関係する詩句を複数残している。それだけでなく、同書巻上·四時部には、庚申の御遊の席上で、天皇に長寿を祝う言葉に「延命の術を廃せず」があり、「守三尸」の目的は人間の早死を望む三尸虫を拒み、長生き(延命)するためであるという認識をはっきり示した。

『日本紀略』の一条天皇の長保元年(999)六月九日の条に「有守三尸之御遊」、同五年(1003)六月二日の条に「殿上守三尸」、寛弘六年七月七日条に「於今夜御殿守三尸。有御遊。」、治安二年(1022)八月二十三日の条に「今夜於御殿守三尸。」と記載されている。

平安末期の藤原頼長(1120~1156)は、日記『台記』巻五に当時「守三尸」の様子を詳細に記録した。

(正月)十四日庚申。守三尸。懸老子影。講老子経。講師友業。問者実長。孝能。拠庚申経。夜半已後。余及客皆向正南再拝。呪曰。彭侯子·彭常子·命児子。悉入窈冥之中。去離我身。鶏鳴後就寝。

九世紀に日本人僧侶円仁が遣唐使として九年間中国滞在し、その経験を書いた日記『入唐求法巡礼行記』(838~84)に、目撃した中国の「守庚申」に関して、

人咸不睡、与本国正月庚申之夜同。

と記したが、その頃の日本で行なわれていたのは、中国大陸と同じく道教の「守庚申」、「守三尸」であろう。それが十四世紀まで続いた。

日本では「守庚申」が仏教化されたのは室町時代の末頃であった。江戸時代に「庚申待」という呼び名に代わって、全国に広まり、一般化された。

特に目を引くのは『室町時代物語大成』(角川書店 1973~1988)に所収される庚申待に関係する御伽草子『庚申之縁地』(天文本、写本)、『かうしん之本地』(慶長本、写本)、『庚申縁起』(寛文本、巻子本)、『庚申之御本地』(元文本、刊本)をひも解くと、いずれも仏教化された庚申待の内容(津の国難波天王寺の僧侶、民部僧都が帝釈の使者である童子に出会って、その童子から庚申待の薦めを受けたというストーリ)である。しかし、これらの御伽草子の作品には庚申待が道教の「守三尸」信仰から由来することを明白に示していることである。

たとえば寛文本『庚申縁起』には、庚申待の実行理由に関して、

夫、衆生ニ、上中下ノ三層アリ、上層ハ彭踞ト号シテ、則衆生ノ頭ニアリ、中層ハ彭質と名ケ、人ノ腹中ニアリ、下層ハ彭矯ト号、人の足中ニ住ス然ニ、庚申ノ夜、取分、三ノ戒アリ

と説明した。

さらに、元文本『庚申之御本地』には、三尸虫の悪業及びその悪業を防ぐ「不眠」の作法と呪言を詳細に叙述している。

腹中のむし、此夜ねいりぬれは、天に上りて、わかこころのうちの、あくこうの、わろき事を。天道につけわたす也。をろそかに思ふまし。わつかのまも、ねふりては、せんなき事也。しかも、ねかふところのくはんも、いたつら事となるへし。

ぬる時は、わが腹を三度たたき、

せいけうや、いまやねさるの、わかとこに、ねたとてきたる、ねぬそねロロロ。

このうたを、七返よむへし。

要するに、「三尸」虫から自分を「守」るためには、庚申の夜、絶対に寝てはいけない、睡眠はタブーであるということを書いた。

同書には、次のように帝釈の使者である童子が、四天王寺の僧侶、民部僧都に注意を促した。

少しにてもまとろまは、我腹の三虫、天上へ、たちまちつくる事なれは。いかやうの、世のかたりにても、何やうの事にても。すいめんをさます事こそ、あらましけれ。この事、日本の衆生に、よくひろめ給へと

さて、どうしても眠くなったらどうしよう。

ねふり来らん時は、何にても、手遊のさまさま、舞、哥、音曲、経をとなへ、心には、思ふ事を願ふべし(中略)故に、かうしんの夜は、信心を、いたして、こころをしつめ、経をよみ、きねんをいたし、伽のひとひとをいさめ

そして、

その座敷につらなりて、またぬ、ともからなりとも。随分、伽しゅをいさめて、けうあらは、こころの望は、をのつから、かなふへし

これらの「お伽の人々」にも、

食物をすすむへし。おほくの伽を、あつめて、衆人のいさめて、他念なく、ねかふ事のみ念して、しんしんに、まつへき也。(中略)とかく、ねふらぬやうに、きゃうけんききよの、くちをたたきて、さもにきやかに、まつへし。

と同書は述べている。

御伽草子である『庚申之御本地』に、「守三尸」の内容と関連してはっきりと「伽」、「伽のひとひと」、「伽しゅ」の表現が現れたのは、御伽草子の「伽」の原点はそもそも道教の「三尸」説に因んでいることを語っている。ここに出ている「伽」は、庚申待で眠気を覚ますため咄をする宗教活動(同書には、またその場でしゃべる「咄」も意味する)、「伽のひとひと」は庚申待に参加する人、そして「伽しゅ(衆)」はお咄の専門職であるということを理解して間違いないであろう。

ちなみに道教の「守庚申」、「守三尸」では「不眠」は最大のタブーであるが、他にさまざまなタブーが存在する。中国古代の道教の最重要経典の一つ、梁の道士陶弘景撰の『真誥·巻十』には、

凡庚申之日,尸鬼竞乱,精神躁秽,夫妻不可同席及言语面会,当清斋不寝,屏除欲念,故云。

すなわち欲を抑え、夫婦同席や、面会をしてはいけないと述べている。また、精神を集中するために、「守庚申」では、「叩歯」という修行作法が必須となる。唐の名士、権权德舆(759~818)の詩作には「与道者同守庚申」が掲載されている。

洞真善救世,守夜看仙经。俾我外持内,当兹申配庚。斋心已恬愉,澡身自澄明。沉沉帘帏下,霭霭灯烛清。四支动有息,一室虚白生。收视忘趋舍,叩齿集神灵(ー線は筆者、以下同)。伊予嗜欲寡,居常痾恙轻。三尸既伏窜,九藏乃和平…

「守庚申」の道教的タブー、修行作法は上掲の御伽草子の作品にも見られる。

今夜ハ、男女、愛欲ノ心、少モ不思、唯、今世後生ノ、願計ヲ思テ、余事ヲ不思、諸願ヲ叶エ給ヘト、祈念スルナリ(天文本『庚申之縁起』)

爰ヲ以テ、庚申ノ縁日ニ、申ノ時ヨリ、南方ニ向ケ、垢離ヲ掻、無垢ノ衣裳ヲ着シ、他念ヲ不交、慈悲心ヲ発シ、魚類、四足ヲ食セス、男女之愛着ヲ慎ミ、悪キ雑談ヲ、止メ(寛文本『庚申縁起』)

暁之哥曰…三度唱テ、ハヲ、三度、食合スヘシ、如此スレハ、鬼神、障礙ヲナサス(天文本『庚申之縁起』)

庚申呪言…我ハ テンセン 汝ハ是 チキナリ、夕(多)宝世界ニサツテ、マタ不来、ハヲ、九度ナラス(慶長本『かうしん之本地』)

以上のように「庚申待」と関係する御伽草子諸作品は、道教の「守三尸」の影響を受けていることがわかる。

以上の資料及び論述を踏まえて、改めて「御伽草子」の「伽」という意味を整理して結論を出したい。

「伽」の字義から次のような順にまとめると、

(1)相手(『天正節用集』:「人の伴」、『日葡辞書』:「ただ一人でないように、あるいは人が他の人の相手をすること」)

(2)無聊を慰めるための話(咄)相手(『時代別国語大辞典(室町時代)』:「人の相手をしてその無聊を慰める、またその役を務めるもの」、『漢語大辞典』:「人のつれづれを慰めること、その人、陪伴」

(3)故に「伽」は「咄」の付合語ともなる(『俳諧類船集』:「伽 貴人の前、月待ち、日待ち、咄」)

(4)無聊を慰めるための話(咄)をする場所は、寝ないで徹夜する宿直である(『和漢三才図会』:「伽 俗以宿直伴人曰伽」)、「夜伽」(通夜)、「お伽坊主」(夜の通夜僧)。宿直はすなわち夜交代で泊まり込む官庁、公家、武家などの場所で行うことである。

ここでは特に④に注目したい。すなわち普通日常の娯楽のように、ただ無聊を慰めるために、いろいろなおもしろい咄をすることではなく、夜明けまで眠気を覚まし、徹夜をするために咄をすることである。その上、『「伽」という字は…無明の闇に集く魔厭を逐ひ払ふ音である…「御伽」の方は妖怪談のように稍稍恐ろしいものを対象としている』とお伽の「咄」に魔物払いも含む宗教的意味があるという折口信夫氏の解釈も踏まえて、「伽」にある「夜咄をして、無聊を慰め、眠りをしのぎ、徹夜をする」という字義は正に「守庚申」、「守三尸」の庚申夜、人間の寝ている間天帝に罪を告げ、寿命を短縮させる「三尸虫」を払う(阻止する)ために咄などをして眠気を覚まし、夜明けまで徹夜をするという宗教活動の最大の特徴を反映している。

従って、御伽草子の「伽」のそもそもの意味は「庚申待」すなわち道教の「守庚申」、「守三尸」という宗教活動であると言えよう。

なお、室町時代には公家、武家、さらに皇室にまで「咄」を専門とする職人―お伽衆が大いに活躍した。彼らがもともと「貴人」のために「咄」を語る場は、「庚申待」という宗教活動の場であった。この「庚申待」は中国道教の「守庚申」、「守三尸」に由来する。そしてお伽衆たちが室町時代に盛んに行われた「伽」すなわち庚申待といった宗教活動の場で話したいろいろな民間伝承、文芸の咄が集め、潤色、充実、敷衍、語り継がれるうちに草子化(小説化)され、ついに「御伽草子」という文学のジャンルが誕生したのである。

室町時代末頃、庚申待は仏教化され、江戸時代に入ると、印刷技術の普及による出版の興隆に伴って、御伽草子の作品は写本から木版本に変わり、大量に民間に広まり、まさに大衆文学となった。その中の「一寸坊主」、「浦島太郎」など一部童話風の作品は子女たちに愛読され、御伽草子は児童読み物としても扱われ、今日に至った。道教から仏教へ、絵本、絵巻、写本から木版本へ、貴族、将軍など貴人たちから一般庶民へ、このような流れの中、もともと道教の「守庚申」、「守三尸」に由来する御伽草子の「伽」の宗教的意味は時代と共についに薄れ、忘れ去られてしまったのである。

[1]窪徳忠『庚申信仰』(山川出版社、1956)

[2]『お伽草子』(日本文学研究資料刊行会編 有精堂、1985)

[3]『室町時代短編集』(笹野堅編 栗田書店、2003)

[4]市古貞次「御伽草子研究史」『御伽草子の世界』(三省堂)

[5]角川源義「御伽考」『國學院雑誌』61巻6号

[6]松田修「お伽とお伽衆」『日本文学研究資料叢書·御伽草子』(有精堂)

[7]大島建彦『お伽草子と民間文芸』(岩崎美術社、1967)

[1]桑田忠親『大名とお伽衆』(有精堂、1969)。

[2]臼田甚五郎「日本文芸の流れに浮かぶ「伽」」『図説日本の古典·巻13』(集英社、1980)。

[3]檜谷昭彦「解説 お伽草子」(『日本の古典·別巻2』(世界文化社、1975)。

[4]折口信夫「お伽及び咄」『折口信夫全集·十巻』(中央公論社、1930)。

[5]窪徳忠「2庚申の御遊」『庚申信仰』(山川出版社、1956)。

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