朱舜水と黄宗羲——明末清初日中交流の一断面——
南京工業大学 古賀崇雅
はじめに
陳元贇[1](1587~1671)はその著『長門国誌』において次のように記す。
是の方地北海の滸に逼り、冬時大だ寒く、旬を連ねて風雪絶へず、民疾癘多し。居室は低陋、垣壁は皆な砂土蘆葦を以って飾りと為し、楩を覆ふに木片を以ってし、草綯細竹瓦と為す。食は惟だ魚鳥兔鹿のみ。柿柑の果極めて多く、華卉葯苗の種甚だ盛んにして、山畦肥瘠相ひ半ばす。(中略)城南の平安戸市の水味咸く、飲む者渇きを生ず。鉄銭、煎餅銀を用ふ。習俗皆な学を好み医に工み、人多く善良にして礼儀、淫汚窃盗の事、他国に比して稀少なり。但だ郷市の伝聞に狗魅夜出でて人を蠱わし、師巫呪水を用ひて之を禳へば即ち去り、害を為すに至らざること有り。歳時七月望夕は則ち舞躍の戯有り。中元を以って上元と為し、大張に火を灯して、歌楽を作す。其の貴介の公子は則ち、鞠を蹴り鷹を放ちて馬を馳せ剣を試み、縉紳儒釈は則ち、歌を聠ね詩を賦し、貴賤を論ずる無く、率ね書理に通ず。婚、娶は年少を喜悦し、葬祭
は佛教を尊尚す。其の音語和平にして俗ならず、余の列国と尽く同じ。[2]
日本へと渡来した中国知識人の目を通した当時の長門(現在の山口県)の様子がつぶさにうかがえる。いうまでもなく当時の日本は鎖国体制がひかれ、日本人の海外渡航は禁止されていたが、長崎では清との交易がおこなわれ、そのさまざまな交易品が全国へと流通していた。古代から綿々と続けられてきた中国との交流は、産物の往来はもちろん、漢籍もかなりのものが古典から清代の当時最新のものまで日本へともたらされ、さらに知識人や僧侶、医者、芸術家などによる人的交流も盛んであった。
ここにとりあげる、朱舜水(1600~1682。名は之瑜、字は魯璵、舜水と号す)と黄宗羲(1610~1695。字は太沖、南雷と号す)がもたらした日本の学術文化への影響はとくに看過できないものである。朱舜水と黄宗羲が生きた時代は明朝の崩壊、抗清運動、清朝の統一という激動期である。清末民国の学者梁啓超(1873~1929)は顧亭林(1613~1682)、王船山(1619~1692)とともに朱舜水と黄宗羲をこの時代の代表的な人物と位置づけている。[3]また、朱舜水と黄宗羲は余姚の出身で王陽明(1472~1528)らとともに余姚の賢人として著名であり、ともに復明運動に身を投じた共通点をもつ。島田虔次氏は黄宗羲の筆になる「両異人伝」をとりあげ、朱舜水と黄宗羲が旧知の関係にあった可能性に言及されている。[4]
本稿では中国伝統文化の体現者である朱舜水と黄宗羲がもたらした日本の学術文化への影響から、明末清初期の日中交流の一端を紹介したい。
(一)
朱舜水が日本へ与えた影響は深刻である。朱舜水と柳川の儒者安東省菴(1622~1701)との師弟関係、朱舜水を賓師として水戸に招いた徳川光圀(1628~1700)との交流と水戸藩への学問的影響はひろく人に知られているが、ここではとくに安東省菴(名は守約、字は魯黙、省菴と号す)の学問観の変遷から、朱舜水との学術交流について述べたい。[5]
原念斎の『先哲叢談』(巻之二)に、
舜水、難を冒して輾転落魄する者十数年。其の来たりて此の邦に居るや、初め窮困支ふること能はず。柳河の安東省庵、之れに師事し禄の一半を贈る。[6]
とあり、七度に渡る来日の後、万治二年(1659年)、長崎に亡命した朱舜水のために自らの俸禄の半分を割いた、安東省菴の朱舜水に対するひたむきな援助は、美談として後世にいたるまで語り継がれることとなった。
安東省菴は、京都の松永尺五(1592~1657)に師事した朱子学者であり、陳元贇ともいちはやく交友している。長崎で帰化僧独立(1596~1672)から朱舜水のことを知らされ、その亡命以前から朱舜水の来日を待望していた。
設し程朱の日本に来たる有りて、之に師事せざれば、寧ぞ之を識見有る者と謂はんや。今、先生の来たるは即ち程朱の来たるなり。[7]
と、その学問的情熱を朱舜水に書き送っている。安東省菴にとって朱舜水は紛れもなく宋学の形成者程明道(1032~1085)、伊川(1033~1107)兄弟、そして宋学の集大成者朱子(1130~1200)そのものであった。
安東省菴は朱舜水の人となりとはじめて面語したときの印象を次のように述べている。
先生人と為り厳恪なるも雍穆、之を望むに畏るべきも、之に即けば親近すべきの意思有り。一言一行、誠を以って本と為す。守約、初めて見えしとき、謂ひて曰く、我れ它に長ずる無し、只だ一誠なるのみ、と。[8]
朱舜水の厳格さの中にある温かさを伝えるとともに、誠実さ、まごころを第一とするその哲学を示している。
万治二年、朱舜水が亡命した年に安東省菴は朱子学の立場から陸象山(1139~1192)や王陽明の陸王心学や仏教を批判した明の陳建(1497~1567)の『学蔀通弁』を翻刻しているが、朱舜水との学術交流を通して、朱子学を基礎としながらも陸王学をも折衷し、自らの学問を確立していった。
安東省菴が江戸で没した朱舜水の追悼のため、その手元に遺る朱舜水の筆語、語録や書簡をまとめた「心喪集語」[9]によると、「老師、姓は朱、文公先生の裔なりや否や」との安東省菴の問いに対して、朱舜水は次のように答えている。
文公は新安の人、不佞は余姚の人、若し能く自ら樹立せば、何ぞ必ずしも我れ自り祖と作らん。[10]
安東省菴の朱舜水に朱子を重ね合わせる期待の大きさと、学問的情熱を感じさせる質問ではあるが、朱舜水は自らの学問の樹立こそが大切であると教えている。すべての存在の根拠である理を窮めていく程朱学と、自己に本来固有する心の発揮を求めていく陸王学のどちらの立場を信奉するかは、宋明の儒学を学ぶ者にとって避けては通れぬ大問題であったが、安東省菴の朱陸の是非に対する問いに朱舜水は次のように答えている。
譬へば人の長崎の在りて京に往くが如し。或るひとは陸に従ひ、或るひとは水に従ふ。陸に従ふ者は須らく一歩歩走り去るべし。水程に繇る者は一たび順風を得れば迅速に到るべし。豈に水に従ふは非、陸に従ふは非と曰ふを得んや。只だ京に到るを以って期と為すのみ。[11]
学問の到達には長崎から目的地の京都へと向かうようにいろいろな手段があるのであり、漸次的な朱子学を陸を進むものにたとえ、頓悟的な陸学を海をいくものにたとえて、みだりに朱陸の是非を論ぜずに学問の到達こそが目的であると説いている。ここでもやはり自らの学問の樹立こそが大切であると強調されているのである。
朱舜水との出会いから十数年の後、安東省菴が初学者のために宋代から明代の朱子学者、陸王学者十八名の言葉を編集した『初学心法』[12]の後序には、次のようにある。
学ぶ者は当に先ず客気を去り勝心を平らかにして至公無我の地に至って、而る後に朱陸の同異是非を言ふべし。[13]
まず自己の狭い意見にとらわれず「至公無我の地」という境地に至らなければならないという。それからはじめて朱陸の同異是非を論じることができるという。こうした安東省菴の学問観の変遷は朱舜水の影響であるといえる。
(二)
清の順治六年(1649年)十月、黄宗羲四十歳の時、「日本乞師」のため、復明運動の同志馮京第とともに長崎と薩摩(現在の鹿児島県)に立ち寄ったとされている。黄宗羲七世の孫黄炳垕の撰による『黄宗羲年譜』の当該箇所は以下のように記す。
十月、監国、健跳由り舟山に至り、復た公を召し、馮侍郎躋仲、副の澄波将軍阮美と偕に師を日本に乞はしむ。長埼に抵るも、請ふを得ず、公、為めに式微の章を賦して、以て将士を感ぜしむ。日本乞師紀、海外慟哭紀有り。[14]
この『黄宗羲年譜』とほぼ同様の記事が『海東遺志』、『魯之春秋』などの黄宗羲の伝記資料中にも見えている。[15]
この黄宗羲の来日について、黄宗羲の門人の全祖望(1705~1755)は黄宗羲の「避地賦」(『黄梨州文集』所収)を引用し、その来日に肯定的見解を示している。
公が日本乞師紀、但だ馮公が使を奉ずるの始末を載するのみにして、己に與る無し。惟れ避地賦に曰ふ有り、長埼と薩斯瑪を歴るなり。方に夫の隆平を粉飾せん、と。又た曰く、余の旆を返して西行す。胡んぞ泥中に為さん、と。則ち是れ公嘗て馮と偕に行くを以って、而る後に之を諱む。[16]
さらに、全祖望は「諸家も亦た未だ公が曾て東行せしを言ふ者有らず」、「顧みるに略其の事を賦に見、予以って公が孫千人に問ふも亦た愕然として知らざるなり。事、百年を経て、始めて考ふるに之を得たり」とも述べている。[17]自身の「日本乞師」について黄宗羲があえて述べようとしなかったことから、当時にあってもその来日は知られることのないものであったようである。
一方、梁啓超はその来日について、「日本乞師」のためではなく日本に避難しに来たのであるとし、来日年代についても異説をとなえ、全祖望を批判する見解を示している。[18]
ところで近年の呉光氏は、「日本乞師紀」と「避地賦」の記事、全祖望の文章、『海東遺志』、『魯之春秋』などの黄宗羲の伝記資料から総合して、梁啓超の説をしりぞけて、黄宗羲が援軍を乞うために清の順治六年(1649年)十月に来日したのは事実だと考えるべきことを指摘されている。[19]
しかし同時に呉光氏も指摘しておられるように、日本側に黄宗羲の来日を裏付ける資料がなく、いまだに確定するに至っていない。ここでは黄宗羲が来日した可能性が極めて高いことを確認しておきたい。
黄宗羲は明末の大儒劉念台(1578~1645)の門人である。劉念台は陽明学を批判的に受容した学者で、東林学派の顧憲成(1550~1612)高攀龍(1562~1626)等と交わり、明朝の滅亡に際して食を絶ち国に殉じた。
黄宗羲の学術における不朽の貢献は、その主著で中国最初の学術史『明儒学案』(全六十二巻、1676年成立)である。明代の儒者の伝記と主要な著作資料を編集し学派別に分類したものであり、とくに王門後学の分類に際して地域別に分類したところにその特長があり、現代においても明代の儒学、陽明学を研究する上で不可欠の書である。[20]
『明儒学案』はその出版以来、中国国内で読まれるばかりでなく、日本の江戸時代後期、幕末維新期の儒学者にも深い影響を与えている。江戸時代後期の大儒佐藤一斎(1772~1859)や幕末の志士として著名な吉田松陰(1830~1859)も『明儒学案』を読んでいる。
大塩中斎(1772~1837)は『洗心洞箚記』において、清初の学者彭南畇(1645~1719)の『姚江釈毀録』の自叙を引用した後、王陽明の門人の鄒東廓(1491~1562)、欧陽南野(1496~1554)、羅念菴(1504~1564)及び、劉念台、黄宗羲などの名を列挙して、彼らについて以下のように述べている。
其の道徳功業は、皆な載籍に炳燿せり。閲する者は之を知らん。然り而して載籍は浩瀚にして、閲する者も亦た罕なり。況や学の姚江に属するものは、禁じて之を称せざるをや。故に予れ明史、明史藁、南彊繹史及び学按等の書に就きて、諸君の道徳功業を採りて略述す。小子これを聴け。[21]
ここにいう「学按」とはすなわち『明儒学案』のことであり、大塩中斎も『明儒学案』を熟読考究したものと思われる。
さらに、大塩中斎や吉田松陰、春日潜菴(1811~1876)、佐藤一斎の門人である大橋訥菴(1816~1862)といった幕末維新期の動乱に政治的に活躍した朱子学者、陽明学者とは一線を画し、劉念台や黄宗羲の新陽明学や東林学派の新朱子学の影響を受け、深く自らの学問追求を目指した池田草菴(1813~1878)や東沢瀉(1832~1891)楠本端山(1828~1883)、碩水(1832~1916)兄弟等がいた。[22]彼らはお互いに切磋琢磨しながら「己れの為めにする」学を修めていった。[23]
主体性を重視する王陽明の教えは門人たちに自由な解釈を許し、門人たちは自らの立場から先師の言葉を多様に解釈していった。そのため陽明学は明代中期後期において大いに流行発展した。しかし一方で陽明学亜流も生まれ細分化していった。その時によりどころとなる書が黄宗羲の『明儒学案』であった。日本の幕末維新期の儒学者たちは、明朝の滅亡と清朝の建国を江戸幕府の倒壊と明治新政府の成立に重ね合わせ、明の滅亡を目の当たりにした劉念台や黄宗羲への深い共感を抱きながら、『明儒学案』のなかに再現された思想家の遺文を深く読みこむことによって、その思想家の体験を自らの体験として追体験する自得体認の学を修めたのだった。
おわりに
朱舜水と黄宗羲という二人の中国伝統文化の体現者をとりあげ、日本への影響を述べた。
朱舜水は日本に亡命し、その二十二年間で学術に大きな足跡を残したことを柳川の儒者安東省菴との学術交流において述べ、一方、黄宗羲は「日本乞師」のために来日した可能性が極めて高いことを確認し、その主著である『明儒学案』を通じて日本の幕末維新期の儒学者に影響を与えたことを紹介した。
日本の儒学者たちは、中国伝統文化の体現者から直接間接に学びつつ、深く自己と向き合いながらその学問を受容していった。こうした日本の儒学者たちに共通する真摯な姿勢は、儒教のみならず、仏教、道教を中心とする東アジア世界における漢字文化圏のなかで教養を共有し、共通の問題意識をもっていたことに起因する。[24]さらに、朱子学者、陽明学者に共通する問題意識とは、理想的人間像の追究であり、自己の確立である。[25]こうした問題意識をもって日本の朱子学者、陽明学者たちは中国伝統文化を学んだのだった。理想的な人間像の追究や自己の確立にはどうするべきかという根源的な問いは、時代を超えた不変的な問いであろう。以上に述べた文化交流は古代から現代に至るまで綿々と続く日中文化交流のほんの一端に過ぎないが、現代の価値観の多様化された日中交流において大いに教訓となるべきものであるように思われる。
参考文献
著書
[1]王建民主編『中日文化交流史』外国教学与研究出版社、2007年。
[2]源了圓著、郭連友訳『徳川思想小史』外国教学与研究出版社、2009年。(原著:源了圓著『徳川思想小史』中公新書 1973年)
[3]朱舜水著、朱謙之整理『朱舜水集』中華書局、1981年。
[4]黄宗羲著『黄梨洲文集』中華書局、1959年。
[5]沈善洪主編『黄宗羲全集(増訂版)』浙江古籍出版社、2005年。
[6]黄炳垕撰、王政堯点校『黄宗羲年譜』中華書局、1993年。
[7]李甦平著『朱舜水評伝』南京大学出版社、1998年。
[8]徐定宝著『黄宗羲評伝』南京大学出版社、2002年。
[9]朱義禄著『黄宗羲与中国文化』貴州人民出版社、2001年。
[10]衷尓鉅輯注『陳元贇集』遼寧人民出版社、1994年。
[11]全祖望撰、朱鋳禹彙校集『全祖望集彙校集注』上海古籍出版社、2000年。
[12]梁啓超著『中国近三百年学術史』中国社会科学出版社、2008年。
[13]候外廬·邱漢生·張凱之主編『宋明理学史』人民出版社、1987年。
[14]謝国禎著『南明史略』吉林出版集団有限公司、2009年。
[15]荒木見悟責任編集『朱子 王陽明』中央公論社、1978年。
[16]源了圓·前田勉校注『先哲叢談』平凡社、1994年。
[17]柳川市史編集委員会編集『安東省菴集影印編』、2002年。
[18]柳川市史編集委員会編集『安東省菴集影印編Ⅱ』、2004年。
[19]吉田公平著『洗心洞箚記』タチバナ教養文庫、1998年。
[20]岡田武彦著『江戸期の儒学』木耳社、1977年。
[21]加藤徹著『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』光文社新書、2006年。
論文·その他
[22]福田殖「呉光氏の黄宗羲に関する学術講演―浙江省社会科学院との学術交流報告―」、『文学論輯』第三十三号、1987年。
[23]福田殖「陳元贇·朱舜水と安東省庵」、文部省科学研究費補助金研究成果報告書『近世より現代に至る来日中国学者·思想家たちの日本文化受容に関する総合研究』九州大学言語文化部、1989年。
[24]疋田啓佑「朱舜水と安東省菴―その思想上の影響の一端―」、『文芸と思想』第六十号、1996年。
[25]疋田啓佑「安東省菴の生涯と思想」、『安東省菴集影印編Ⅰ』付録『柳川資料集成月報八』、2002年。
【注释】
[1]陳元贇、字は義都、即白山人と号す。明国虎林の人、乱を避けて帰化。尾張藩に賓客として招かれた(『先哲叢談』巻之二参照)。また、『長門国誌』序文に「余自万暦己未秋、渡瀛海渉鯨波、入扶桑之故墟」とあり、日本へ亡命は万暦四十七年、元和五年(1619年)のことである。陳元贇は詩文にすぐれ、「元贇能く此の邦の語に嫺ひ、故に常に唐語を用ひず」(『先哲叢談』巻之二)とあり日本語もできた。また日本へ拳法を伝えたことでも有名である。
[2]『長門国誌』「土俗」(『陳元贇集』輯注衷尓鉅遼寧人民出版社1994年所収)原文は以下の通り。「是方地逼北海之滸、冬時大寒、連旬風雪不絶、民多疾癘、居室低陋、垣壁皆以砂土蘆葦為飾、覆楩以木片、草綯細竹為瓦。食惟魚鳥兔鹿。柿柑之果極多、華卉葯苗之種甚盛、山畦肥瘠相半。(中略)城南平安戸市之水味咸、飲者生渇。用鉄銭、煎餅銀、習俗皆好学工医、人多善良而礼儀、淫汚窃盗之事、比他国稀少。但郷市伝聞有狗魅夜出蠱人、師巫用呪水禳之即去、不至為害。歳時七月望夕、則有舞躍之戯。以中元為上元、大張灯火、而作歌楽、其貴介公子、則蹴鞠放鷹馳馬試剣、縉紳儒釈、則聠歌賦詩、無論貴賤、率通書理。婚、娶喜悦年少、葬祭尊尚佛教。其音語和平而不俗、余列国尽同。」以下、本文における資料の引用は書き下し文とし、原文を注記する。
[3]梁啓超『中国近三百年学術史』(中国社会科学出版社2008年)15ページ。
[4]島田虔次「黄宗羲と朱舜水」(『中国の伝統思想』みすず書房2001年所収)。また、『朱舜水集』(中華書局1981年)附録一、梁啓超「朱舜水先生年譜」、同附録四、湯壽潛「舜水遺書序」参照。
[5]朱舜水と安東省菴の学術交流については、疋田啓佑「朱舜水と安東省菴―その思想上の影響の一端―」(『文芸と思想』第六十号1996年)、同「安東省菴の生涯と思想」(『安東省菴集影印編Ⅰ』付録『柳川資料集成月報八』2002年)を参照。
[6]『先哲叢談』巻之二(源了圓、前田勉校注平凡社1994年)
[7]『省菴先生遺集』巻六「上朱先生書」および『朱舜水集』附録三「上朱先生二十二首」の第五首。引用は『朱舜水集』によった。原文は以下の通り。「設有程朱来日本、不師事之、寧謂之有識見者哉。今先生之来、即程朱之来也。」
[8]「先生為人厳恪雍穆、望之可畏、即之有可親近之意思。一言一行、以誠為本。守約初見、謂曰、我無它長。只一誠而已矣。」(『朱舜水集』附録四「朱舜水先生文集序」)
[9]「心喪集語」のテキストは『安東省菴集影印編Ⅱ』(柳川市史編集委員会編集 2004年)所収本によった。
[10]原文は以下の通り。「文公新安人、不佞余姚人、若能自樹立、何必不自我作祖。」
[11]原文は以下の通り。「譬如人在長崎往京。或従陸、或従水。従陸者須一歩歩走去。繇水程者一得順風迅速可到。豈得曰従水非、従陸非乎。只以到京為期。」
[12]延宝三年(1675年)刊。『安東省菴集影印編Ⅰ』(柳川市史編集委員会編集2002年)所収。
[13]原文は以下の通り。「学者当先去客気平勝心、至於至公無我之地、而後言朱陸之同異是非。」
[14]「十月、監国由健跳至舟山、復召公偕馮侍郎躋仲、副澄波将軍阮美、乞師日本。抵長埼、不得請、公為賦式微之章、以感将士。有日本乞師紀、海外慟哭紀。」(黄炳垕撰、王政堯点校『黄宗羲年譜』中華書局1993年27ページ)
[15]ともに『黄宗羲年譜』(黄炳垕撰、王政堯点校『黄宗羲年譜』中華書局1993年)所収。
[16]引用は『黄宗羲年譜』(黄炳垕撰、王政堯点校『黄宗羲年譜』中華書局1993年)27ページの注記文からである。以下原文を記しておく。「公日本乞師紀、但載馮公奉使始末、而於己無與。惟避地賦有曰、歴長埼與薩斯瑪兮、方粉飾夫隆平。又曰、返余旆而西行兮、胡為乎泥中。則是公嘗偕馮以行、而後諱之。」これは全祖望「梨洲先生神道碑文」(『鮚埼亭集』巻十一)を節録したものであり、文字が若干異なる。
[17]『黄宗羲年譜』(黄炳垕撰、王政堯点校『黄宗羲年譜』中華書局1993年)所収、全祖望「梨洲先生神道碑文」。
[18]梁啓超『中国近三百年学術史』(中国社会科学出版社2008年)47ページ。ただし、梁啓超の門人である謝国禎は師説に疑問を投げかけている(謝国禎「黄梨洲著述考」)。
[19]福田殖「呉光氏の黄宗羲に関する学術講演―浙江省社会科学院との学術交流報告―」(『文学論輯』第三十三号1987年)参照。また、呉光氏の近著に『黄宗羲与清代浙東学派』(中国人民大学出版社2009年)がある。
[20]黄宗羲は王門後学を地域別に(1)浙中王門(2)江右王門(3)南中王門(4)楚中王門(5)北方王門(6)粤閩王門の所謂「王門六派」に分類した(『宋明理学史下巻(二)』候外廬·邱漢生·張凱之主編人民出版社1987年795ページ)参照。
[21]引用した訓読文は吉田公平『洗心洞箚記(上)』(タチバナ教養文庫1998年)336~337ページを参照した。
[22]岡田武彦『江戸期の儒学』(木耳社1977年)参照。
[23]「己れの為めにする」とは『論語』(憲問篇)に「子曰く、古への学者は己れの為めにし、今の学者は人の為めにす」とあるのに基づくのはいうまでもないが、程伊川の言葉に「学は自得より貴きは莫し。人に在るに非ざるなり」(『二程粋言』論学篇)とあるように、宋明儒学ではとくに「己の為めの学」、「自得」が最重要視された。
[24]日本における漢字文化については、加藤徹『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』(光文社新書2006年)参照。
[25]朱子学や陽明学などの宋明学の基本理念とその学問の目的は、「聖人学んで至るべし」、「天理を存して人欲を去る」というところにあった。「つまり、同じく『人欲』『私欲』などといっても、本来的なあり方すなわち天理をどう人間に措定するかによって、その内容も変ってくるのであり(以下略)」という溝口雄三氏の指摘(荒木見悟責任編集『朱子王陽明』中央公論社1978年326ページ)はその通りであるが、方法論や認識論の差こそあれ、学問の出発点と到達点は共通しているのである。
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