较为保守的尾崎红叶最初是站在言文一致对立面的,在他用模仿西鹤雅俗折中体发表《伽羅枕》(1890年7月)时曾自诩为“元禄狂”。但却在创作连载《二人女房》(1891年8月—1892年12月)的期间从1892年1月号转而采用言文一致体,开始了“である”调的尝试。
其后,经过《隣の女》(1893年)、《紫》(1894年)、《冷熱》(1894年)的探索,最终在《青葡萄》(1895年)、《多情多恨》(1896年)中完成了尾崎流的“である”调小说文体,被誉为言文一致的大成者和言文一致普及的第一功臣。由此,再次点燃了行将熄灭的言文一致体小说的创作之火。这种“である”调首先引起了砚友社同人的共鸣,继而影响到砚友社以外的作家。二叶亭就用“である”调翻译了《片恋》(1896年)、《うき草》(1897年)。
这种“である”调之所以在当时打败了“です”“であります”而广受青睐,盖因为“でございます”“であります”“です”太过敬意和冗长,“……だ”又太鄙俗,而“である”调在当时一般人的语言感觉中正好避免了两者过鄙过媚的短处,同时又具备英语的“be”和文言“なり”这样具有普遍性的辞法,加之出自翻译文章,所以给人带来一股清新的感觉。尾崎红叶继《多情多恨》之后又用和汉洋混合的非言文一致体写出了《金色夜叉》(1897—1902年)。以下是《金色夜叉》开头的一段(省略注音假名):
未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて、真直に長く東より西に横はれる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来の絶えたるに、例ならず繁き車輪の輾は、或は忙かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来なるべく、疎に寄する獅子太鼓の遠響は、はや今日に尽きぬる三箇日を惜むが如く、その哀切に小き膓は断れぬべし。
元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌されたる日記を涜して、この黄昏より凩は戦出でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の宥むる者無きより、憤をも増したるやうに飾竹を吹靡けつつ、乾びたる葉を粗なげに鳴して、吼えては走行き、狂ひては引返し、揉みに揉んで独り散々に騒げり。微曇りし空はこれが為に眠を覚されたる気色にて、銀梨子地の如く無数の星を顕して、鋭く沍えたる光は寒気を発つかと想はしむるまでに、その薄明に曝さるる夜の街は殆ど氷らんとすなり。
(《清空文库》)
与此相对,评论界的文章仍为清一色的文言文。另外,很多记者也对言文一致抱有怀疑和否定的态度,认为当时的新兴作家所津津乐道的纯口语式言文一致体“露骨で余韻余情にとぼしく、野卑·冗漫·蕪雑で美文を物するには疑問がある”,而雅俗折中体才是最适当的文艺类小说文体。
免责声明:以上内容源自网络,版权归原作者所有,如有侵犯您的原创版权请告知,我们将尽快删除相关内容。