汉文之于和文的影响不妨说是从训读体开始的。所谓训读体从日文相对于他国文而言实质就是一种翻译体,从日文的角度来看,大致有汉文直译体和欧文直译体两个系列。
在前面历时的回顾里已经看到,就汉文训读体来讲,还有一种是日本人模仿汉文写出的汉文,有人称为变体汉文或记录体。还有一种即以汉文为基调而创作的汉文训读文,都是受汉文的影响出现的文体,因是日本人的直接创作,因此或多或少都夹杂了和文的因素在内,区别在于多寡的不同而已。
而欧文直译体从某种意义上讲也是训读体的一个变种而已。与训读体相对的是“和文体”也称“和文体俗语体”,所谓和文体也并不限于平假名书写的文体,平安时期女流平假名文学鼎盛期由紫式部所写的《源氏物语》以及清少纳言的《枕草子》等毋庸置疑为纯汉文的典型,但并不能代表和文体的全部,只要使用的是纯和文的表达形式,即使是用汉字书写也同样应属于和文体。在日语语言文体上两者形成差别明显的对立项。因此,汉文体与和文体的相互影响和在文体中的张力对比可以说自训读体拉开了序幕。
中世的日本,以汉文训读为基础的假名混合文广为流行,同时又吸收了大量的和文因素,再加上记录体的表达形成以《平家物语》为典型代表的和汉混杂的文体。
有观点[1]认为《平家物语》的文体系由句法三要素:纯和文表现,汉文的句法表现,变体汉文的词汇与语法,构成了其文体的多样性。在《平家物语》中,即继承了平安时期女流平假名文学《源氏物语》及《枕草子》的纯和文的语句表达,也包含了汉文训读的表现方式。此外还有变体汉文所特有的用词用语。从中我们可以看到三种文体相辅相成,各司其职,汉和的势力旗鼓相当,从而维持了一种巧妙的平衡。下面是《平家物语》首段“祇園精舎”的一节:
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。猛き者も終には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。
遠く異朝を問らへば、秦の趙高、漢の王莽、梁周伊、唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政事にも不從、楽しみを極め、諫めを不思入、天下の乱れん事を不悟して、民間の所愁を不知しかば、不久して滅びし者共也。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、此等は猛き心も奢れることも、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前太政大臣、平朝臣清盛公と申しし人の有様、傳へ承るこそ、心も言葉も及ばれね。
其の先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛の朝臣の嫡男なり。彼の親王の御子高視王、無官無位にして失せ給ひぬ。其の御子、高望王の時、初めて平の姓を賜はって、上総介になり給ひしより、忽ちに王氏を出でて人臣につらなる。其の子、鎮守府将軍良望、後には國香と改む。國香より正盛に至るまで六代は、諸國の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。
从这脍炙人口的开头一段下画线_______和_______部分构成了整齐的对仗,显而易见深受汉文的四六骈文的影响。我们如对比一下此段的汉译文,就不难体会到它们之间流动的是相同的节奏:
祇园精舎钟声响、诉说世事本无常。
沙罗双树花失色、盛者必衰若沧桑。
骄奢主人不长久、好似春夜梦一场。
強梁覇道终殄灭、恰如风前尘土扬。
远察异国史实、秦之赵高、汉之王莽、梁之朱异、唐之安禄山、都因不守先王法度、穷极奢华、不听诤谏、不悟天下将乱的征兆、不恤民间的疾苦、所以不久就灭亡了。
正如我们前面所谈到的,并非只凭四六对仗就可视为汉文调,更重要的依据是汉文训读的句法和用词。[2]即山田孝雄(1935)所指出的“漢文を読み下すことによって、おのずから訓致され、日本人の文章を書くときに、自然につかうことになった、日本語にとっては、本来的でない口調”。[3]他提出了一些在平安时代的纯和文里所没有的“汉文训读要素”,其中很多都是我们在现代日语中也常见到的词语,如“如し、曰く、いはゆる、べからず、未だ、かつて、すでに、すなはち、むしろ、或るいは、及び·並びに、おいて、ために”等。根据村上雅孝(1977)的归纳,汉文训读文的特征体现在一下几个方面:
(1)漢文を解釈した上で再び表現するという一種の翻訳文である。
(2)従って、表現は原漢文に制約されるため、型にはまりやすく、一般に没個性的である。
(3)一種の文章語体であって日常の会話体からは遠い。
(4)漢文訓読文の骨格は、平安時代中後期の文法である。
(5)原漢文の語句や語順に制約されるため、国語に見られない語法や語句がある。例えば、願望表現(「ねがはくは」)や禁止表現(「……ことなかれ」)など。
(6)推量·婉曲の表現が単純であること。例えば、助動詞「らし」「らむ」「けむ」「めり」などは訓読文では一般に用いられない傾向にある。おy
(7)係助詞の用法は和文に比べ制約されている。従って係結びの用法は一般に退化している。
(8)助詞·助動詞は和文に比べ豊かとは言えず、それらの連結関係も単純で、複雑な結びつきは比較的少ない。
就《平家物语》所包含的和文要素而言,我们从以上所举的例文中可以发现,和文的敬语表现“給ふ”和“係結び”与汉文调浑然一体地结合在了一起。这种“係結び”可以说是和文的象征,以《枕草子》中的一段为例,这种纯和文中有时即使参杂进汉文的词语,也仍看不出半点汉文的影响:
枕草子(五)
四月、祭りの頃いとをかし。上達部·殿上人も、うへのきぬのこきうすきばかりのけじめにて、白襲どもおなじさまにすずしげにをかし。木々の木の葉、まだいとしげうはあらで、わかやかにあをみわたりたるに、霞も霧もへだてぬ空のけしきの、なにとなくすずろにをかしきに、すこしくもりたるしくもりたる夕つかた、よるなど、しのびたる郭公の、遠くそらねかとおぼゆばかり、たどたどしきをききつけたらんは、なに心地かせん。
除《平家物语》外,平安末期的《今昔物语集》也是公认的汉文体与和文体相混合的代表。
下面是《平家物语》中含有三大文体要素之一记录体的一段文例:
山門牃状
三井寺には貝鐘ならいて、大衆僉議す。「近日世上のを案ずるに、仏法の衰微、王法の牢籠、まさに此時にあたれり。今度清盛入道が暴悪をいましめずンば、日をかすべき。宮こゝに入御の御事、正八幡宮の衛護、新羅大明神の冥助にあらずや。天をたれ、仏力神力もをくはへまします事などかなかるべき。北嶺は円宗一味の学地、南都は夏﨟得度の戒定也。牃奏のところに、などかくみせざるべき」と一味同心に僉議して、山へも奈良へも牃状をこそおくりけれ。山門への
園城寺牃す、延暦寺の衙
殊にをいたして、当寺の破滅を助けられんとおもふ状
右入道浄海、ほしいまゝに王法をうしなひ、仏法をほろぼさんとす。愁歎無レところに、る十五日の夜、一院第二の王子、ひそかに入寺せしめ給ふ。院宣と号していだしたてまつるべきよし、せめありといへ共、出だしたてまつるあたはず。て官軍をはなちつかはすべきむね、聞へあり。当寺の破滅、まさに此時にあたれり。諸衆何ぞ愁歎せざらんや。に延暦·園城両寺は、門跡二つに相分るといへども、学するところは是円頓一味の教門におなじ。たとへば鳥の左右のの如し。又車のの輪に似たり。一方闕けんにおいては、いかでかそのなげきなからんや。ことに合力いたして、当寺の破滅をられば、早く年来の遺恨を忘て、往山の昔に復せん。衆徒の僉議かくの如し。牃奏件の如し。
治承四年五月十八日 大衆寺
とぞかいたりける。
记录体如前所述也称变体汉文、和化汉文。上例的“山門牃状”虽为称作“書き下し文”的改写形式,但仍保留着浓厚的记录体特色,比较典型的如“者”“仍牃奏件の如し”等,与纯汉文相比,有以下不同的特点:
(1)在书写方式上往往用万叶假名、平假名、片假名。
(2)按日语语序表达,语法上为纯汉语的破格用法。
(3)伴有大量的非汉文的敬语表达方式。
(4)使用表示接续关系的“間”“処”,表示引用结束的“者(てへり·てへれば)”,表示动作完了及句尾的“訖”“畢”“了”,表示间接引语结束的“云々”,将前面词句体言化的“由”“旨”“条”,表示指示的“件”等。
(5)借用汉字表示和语、用汉字表音等也是记录体的特征之一。
以上这些特性在《平家物语》中都有所表现,特别是片假名和平假名的在《平家物语》中的混用为后世的和汉混淆文打下了基础。
这种记录体在中世也广为应用于公私的文书记录上,镰仓幕府的法令《贞永式目》也是用这种记录体写成的。记录体对后世的书简文产生了极大的影响。如《新十二月往来》《异制庭训往来》《尺素往来》等书信体主要采用的都是这种记录体。其中,《明衡往来》《高山寺本古往来》等早期的书信里“侍り”占有绝对的优势,但逐渐地被“候ふ”所取代,形成了通常所说的“候文”,直到近代“候文”一直是书简文的固定形式。
这一时期,除军记物语《平家物语》《保元物语》《平治物语》以及《义经记》《曾我物语》《太平记》外,室町时代多见的御伽草子类也都是假名文形式与汉和混合文的要素兼而有之。同时,这一时期佛教故事的散文也空前的繁荣,如《今昔物语集》《打闻集》《唐镜》《宝物集》《发心集》《沙石集》《杂谈集》等都是汉字片假名混合文,在这些文章里,使用大量的汉语词汇及汉文的表达,也掺入大量的和语和俗语等和文表达。如《方丈记》即是和汉混合的名篇,其开头的部分更是脍炙人口:
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。
朗读此文,四六文风的对仗句和倒置法的运用尽显汉文的风采,枕词和助词的呼应功能的巧妙应用使和文体与汉文体浑然一体,读来朗朗上口,富有节奏。
《徒然草》虽然以模仿《枕草子》的擬古文为主调,但由于兼好法师自身阅历的影响,我们在其中仍可看到很多汉文语流的涌动:
第百六十七段
一道に携はる人、あらぬ道の筵に臨みて、「あはれ、我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、よに悪く覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし。などか習はざりけん」と言ひてありなん。我が智を取り出でて人に争ふは、角ある物の角を傾け、牙ある物の牙を咬み出だす類なり。
人としては、善に伐らず、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎あり。慎みて、これを忘るべし。痴にも見え、人にも言ひ消たれ、禍をも招くは、たゞ、この慢心なり。
一道にもまことに長じぬる人は、自ら、明らかにその非を知る故に、志常に満たずして、終に、物に伐る事なし。
第一段虽然有汉字和对句,但整体是流畅的和文调式。第二段突然转向汉文语气,但更正确地讲是开示了与汉籍佛典一脉相承的深邃的思想,即一种汉文语气的思想。
我们从以上的探讨中还可获得这种启示:一个文本表面上的形式有时并不能涵盖其本质性的东西,文章中和文和汉文势力强弱的判断最重要的还要看字面背后所隐藏的暗流,即作者以什么取向和意图为前提去写、去读,这些因素很多时候并不能凭借字面的形式来作判断。例如这里所提的记录体(变体汉文),虽然表明全是汉文,但也有展开后和意占上风的时候,这时只是用汉字书写罢了。
也就是说,对某一个文本的文体的解读,并非用汉字就一定是表现汉意的文章,用假名就一定是和文体的文章,其背后的暗流才是贯彻始终的主导。当然不能否认,发现这种暗流的线索,可是字词的读法(音读或训读),句子的排列,文章的结构等几个方面,发现这种线索只是相对容易点罢了。
正如峰岸明所述:“記録体を含めて変体漢文という文章様式の背後にそれに対応する国語文が存在したことを、また、そのような文章様式についてかかる国語文に基づく書記·読解の共通基盤が当時の人々の間に存在したことを想定する”,(峰岸明1977:170)峰岸明对记录体考察方式就反映了这种看文体的操作理念。
下面我们再来看两个具体的文例。首先是前面提到过的《水左记》,这是一篇典型的记录体:
廿五日、晴、早旦参南殿、自其参関白殿、晩頭帰家、今日可被行臨時除目云、然而依公卿多不参延引了云、
(转引自峰岸明1977:176)
虽然里面混合的日语因素“可”“被”等不在少数,但仍是极力模仿汉文的文章,只是汉文在日语元素的掺杂下不那么纯洁了。下面是藤原定家的《明月记》:
六日、よるあめ、あか月ゆき、ひぐらしあめふる、四条どのへまいる、昨日四七日たれもまいらぬほどに、人なかりけり、けふはいゑひらとふたりまいる、こうがせ経す、あめにぬれていでぬ、
(《名月記》建暦元年一二月六日)(转引自峰岸明1977:183)
这篇记事虽是假名文,但可以将其还原为记录体的汉文,故仍可看做记录体。由此,除纯汉文外,变体汉文的文体(和汉混合体)实际上是和汉两家始终处于你中有我、我中有你的关系当中,其界限非常模糊。(如果要看单词的话,则音读和训读的多寡可用作指标之一。)这也是本文在日本文体的探讨中,随时都注意的一个思考前提。
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