“である”早见于镰仓、室町时代的“にてあり”变化而来;
多年好いた道であれば、最期に一奏で舞うて死なうず(天草本伊曾保物語)
后又变为“であ”“ぢゃ”“だ”。“である”在江户时期用于一些汉语学者、僧侣等的讲义里,到了江户后期,由于荷兰语的学习需要,在西洋学者间作为一种直译连接主语和谓语系辞(copula)而机械地套用为“である”。如:
Dat is haar lief. 夫レハ彼女ノ恋ヒ人デアル。
(桂川甫周《和蘭字彙》)
这种“である”在其后的荷兰语和英语的文典及导读等译读中的主要表现方法,并为演说及言文一致体所采用。嵯峨の屋おむろ的《薄命のすゞ子》(1888年12月)被认为是最早使用“である”体的小说,其开头的部分如下:[8]
遠寺で突く鐘の音が四方に立込めて居る夕霧を潜ツてさも重々とさも悲しさうに夜の来たことを触れ廻はツて地底に深く沈んで仕舞ツた。ツイ今しがたまでヒラリヒラリと風に翻めいて居た乳屋の旗も何時の間にやら下されたと見えて早や音もしない。唯何処でやら余程の遠い所で雷鳴の様な音がホンの幽にして居る計り。是ハ大方街道を馬車が通るのでもあらう。世間はシンとして物淋しい。草葉の露を命と鳴く虫の声も霜枯れて物悲しく姿の哀な七日の月は心細い幽かな光を糸の様に窓に垂れて居る。
虽然如此,在明治24年(1891年)以前,“である”体并没有像“です”体、“だ”体那么普及,一般认为是尾崎红叶从《二人女房》写作的途中开始使用,在《多情多恨》里得到了完善。同时,他在翻译图格捏夫的《片恋》,《うき草》时采用了“である”体,给当时的作家以极大的影响。伴随着自然主义文学运动的发展,近代口语文体的句尾表现方式逐渐固定在了“である”上。而且,明治36年在教科书《尋常小学読本》中规定敬体采用“です”体,常体采用“である”体,为“である”的普及起了不小的作用。
在当时的历史环境下,“だ”的表现听起来生硬冷淡、傲慢无礼,而“です·ます”体又有敬意过剩之感,相比之下,不带有尊卑感的句尾表现“である”则非常适合于进行客观描写和评论的文章,所以理所当然地成为近代口语文的代表。
在公文方面,1952年,《公用文作成の要領》以内阁官房长官的名义向政府各部的事务次官发布通知,其中第二项为文体的有关规定:
1 公用文の文体は、原則として「である」体を用いる。ただし、公告·告示·掲示の類ならびに往復文書(通達·通知·供覧·回章·伺·願·届·申請書·照会·回答·報告等を含む。)の類は、なるべく「ます」体を用いる。
2 文語脈の表現はなるべくやめて、平明なものとする。
又如1971年日本文部省编发的《公文書の書式と文例》里对公用文的用字用语都作了具体的规定,为减少文言表现、促进文章的平明化起到了很大的作用,如:
○「ついては」……「つきましては」とはしない。
○「下表のように」……「下表のとおり」としてもよい。「下表のごとく」のような文語的表現にはしない。
○「違反するような行為」……「違反するがごとき行為」のような文語的な表現にはしない。
○「厳正な処置がとられるべきであります。」でも悪くはないが、意味を強めるために、「厳正な処置がとるべきであります。」とする。
○「出席せしめられるようお取り計らいください。」は、「出席させてください。」とか「御派遣ください。」とかにする。
○「委員を委嘱したいと思います。」は、「委員をお引き受け願いたいと思います。」としてもよい。
○「御多用中とは思いますが」を「御多用中のこととは存じますが」とは書かない。
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