神や教会を中心とする中世の考えから脱し、古代ギリシャ·ローマの人間中心の考え方を復興する文化運動。その根本精神は、ヒューマニズム(人文主義)である。
1. イタリアのルネサンス
▲フィレンツェ
ルネサンスは14世紀ごろからイタリアで展開された。中心都市はフィレンツェで、大富豪メディチ家は芸術家を厚く保護した。16世紀になると、教皇ユリウス2世や教皇レオ10世の保護により、中心都市はローマやヴェネツイアに移った。
大航海時代に起きた商業革命やイタリア戦争(1494~1559)による混乱でイタリア諸都市が没落、またローマ教会が宗教改革に対抗して文化的規制を強化したことなどにより、イタリアのルネサンスは衰えた。
イタリア=ルネサンスの背景
①東方貿易の繁栄(地中海を通じた中近東及びアジアとの貿易)
②ビザンツ帝国の衰亡で、東方の学者が多く移住
③イスラム文化の流入による影響
④ローマの古典文化遺産が多く存在
2. 西ヨーロッパ諸国のルネサンス代表作
背景:ヨーロッパは陸路を使ってアジアから香辛料を多く輸入していたが、陸路はオスマン帝国など様々な国を通らなければならず、輸入にはイスラーム商人やヴェネツィア商人を介し、高価だった。そのため、早期に国土の統一を果たしたポルトガルやスペインが直接取引をしようと航路の開拓を始めた。また、羅針盤の発明や造船技術の発達なども大航海時代の要因である。
大航海時代を経ったスペインはアメリカ大陸を占領し、ポルトガルはインド、アジアへ進出した。貿易の中心は地中海から大西洋へと移動し、これを商業革命という。以降、貿易の中心はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスへと移っていった。また、アジアや南米から大量の銀が流入したことによりヨーロッパの物価が高騰した。これを価格革命という。大商人が貿易により力をつけると、彼らはその地位を確保するために国王と接近し、国王は軍などで大商人の貿易を保護し独占的な地位を安定させた。
▲ルター
中世のヨーロッパは封建社会であった。諸侯や騎士は互いに主従契約を結び、その頂点にいたのがハプスブルク家やヴァロア家といった国王だった。しかし、統治は諸侯が行い、王権は非常に弱かった。一方、キリスト教は農村に浸透し、分裂的だった中世において教会は普遍的な権威であり、その頂点に君臨するローマ教皇の権威は絶大であった。
1517年、ドイツのルターが「95カ条の論題」を発表し、教会の贖宥状の販売を批判し、信仰によってのみ救われることを主張した(ローマ·カトリック教会に対抗する新教徒としてプロテスタントの誕生)。また、スイスで宗教改革を行ったカルヴァンは予定説を唱えた。カルヴァン派は、暴君に対する対抗権を認め、資本主義的な営利活動を肯定したので、商工業者たちに受けいれられて、商工業のさかんな西ヨーロッパに広まった。フランスではユグノーと呼ばれ、イングランドではピューリタンと呼ばれた。
ドイツでは、ルターの説に影響をうけたミュンツァーが農奴制の廃止などを要求するドイツ農民戦争(1524~1525)を指導して、処刑された。旧教徒(カトリック)と新教徒(プロテスタント)の争いはシュマルカルデン戦争にまで発展したが、1555年、アウクスブルクの和議が成立した。ここに、諸侯はカトリックとルター派のいずれかを採用することができるが、領民個人には信仰の自由はなく、それぞれの諸侯の宗派に従うという原則が確立した。
スイスでは、ツヴィングリがチューリヒで宗教改革を開始したが、その後、フランスの人文主義者で「キリスト教綱要」を公刊したカルヴァンがジュネーヴで独自の宗教改革をおこなった。彼の教えの特徴は、神の絶対主権を強調する厳格な禁欲主義で、ジュネーヴでは一種の神権政治がおこなわれた。カルヴァンは、魂が救われるかどうかは、あらかじめ神によって決定されているという「予定説」が説いたが、これが職業労働を神の栄光をあらわす道と理解する考えと結びついて、西ヨーロッパの商工業者のあいだに広く普及した。
イギリスでは、国王ヘンリ8世がスペイン王家出身の王妃との離婚を認めようとしない教皇と対立して、宗教改革が始まった。そして、国王を首長とするイギリス国教会が創設された。
科学の発展
★地球球体説
はじまり:BC300年(ヘレニズム時代のエラトステネスが子午線の長さを計測)
ヘレニズム=ギリシャ文化が栄えた時代
その後マゼランの世界周航によって地球が球体であることが証明された。
★地動説:ケプラー、ガリレイ
★万有引力:ニュートン
★帰納法:イギリスのフランシスコ=ベーコン。
哲学へと発展し、ホッブズ、ロック、ヒュームが継承
★演繹法:フランスのデカルト
哲学へ発展し、スピノザ、ライプニッツが継承
帰納法と演繹法はドイツのカントによって統一された。
★パスカル:『パンセ』、人間の偉大さと悲惨さ、「人間は考える葦である」
★ヴォルテール:啓蒙思想、『イギリスだより』
(中世以来の非合理的な偏見を批判し理性の力による進歩を説く立場)
近世のヨーロッパでは、カトリック教会や神聖ローマ帝国がかつて持っていた普遍的権威が動揺した。諸国は自国の利害を求めて戦争と妥協を繰り返し、恒常的な緊張状態にあった。この過程で多くの国は、自己の支配領域を明確な国境で囲い込み、国内秩序を維持強化して、外に対しては主権者としての君主のみが国を代表する体制を築くようになった。こうした国家を主権国家といい、近代国家の原型となった。そして、このような主権国家が並存する国際秩序を主権国家体制という。
主権国家の形成期に、絶対王政と呼ばれる国王を中心とした強力な統治体制がうまれた。国王は商人などの有産市民層(ブルジョワジー)の社会的地位を向上させ、彼らに経済上の独占権を与えるなどして、協力関係を強めてみずからの権威を高めようとした。
16世紀にはスペインが全盛であったが、ヨーロッパ全体が危機の時代を迎えた17世紀前半には、新たにオランダ·フランスなどの国々が有力となっていった。
1. スペインの全盛期
▲フェリペ2世
オーストリアのハプスブルク家は15世紀後半に婚姻関係を通じてネーデルラントを獲得し、さらにスペイン王位も継承した。1516年スペイン王に即位したスペイン=ハプスブルク家のカルロス1世は、フランスのフランソワ1世を破って1519年神聖ローマ皇帝(カール5世)にも選ばれた。カルロス1世の退位後、ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分かれた。
▲レパントの海戦
スペイン王フェリペ2世(在位1556~1598)は1571年にオスマン帝国をレパントの海戦で破り、1580年にポルトガル王位も継承。アジア貿易を手中におさめ、常に領土内のどこかで日が昇っていることから「太陽の沈まぬ国」とよばれる全盛期を築いた。しかし、1588年、ドレークの率いるイギリスに無敵艦隊(アルマダ)が敗れて制海権を失うと、国力は衰退していった。
2. オランダの独立と繁栄
1556年にスペイン領となったネーデルラントにはゴイセンとよばれるカルヴァン派の新教徒が多数いた。フェリペ2世は重税やカトリックの強制など圧政を行ったため、これに抗議して1568年オランダ独立戦争がおこった。フェリペ2世の懐柔策により旧教徒の多い南部10州(現在のベルギー)は脱落したが、1579年北部7州はユトレヒト同盟を結成、イギリスはこれを援助した。
1581年にはオラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)を総督として、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)が独立を宣言、1609年の休戦条約で事実上独立した。オランダは中継貿易で発展し、1602年には東インド会社を設立してアジアにも進出、首都アムステルダムはアントワープに代わり国際商業·金融の中心となった。
3. フランスの動き
(1)ユグノー戦争
ヴァロワ朝のシャルル9世治世下の1562年に勃発。新教徒(ユグノー)とカトリックの両派や、貴族間の対立が複雑に絡んで戦争は長期化し、1572年におこったサン=バルテルミの虐殺では多数の新教徒が殺害された。1589年アンリ4世が即位(ブルボン朝が成立)。ユグノー戦争を終結させる為に、彼は新教から旧教に改宗する一方、1598年に発布したナントの王令(勅令)で個人の信仰の自由を認め、フランスの国内の宗教対立は終結した。
(2)ブルボン朝の絶対王政
ルイ13世(在位1610~1643)は三部会[1]の招集を停止。以後1789年のフランス革命まで三部会は休会となった。宰相リシュリューは貴族の勢力を抑え、中央集権体制を確立し、絶対王政の基礎を作った。
▲ルイ14世
ルイ14世(在位1643~1715)が即位すると、宰相マザランは、王権強化に対抗する貴族らの反乱(フロンドの乱)を鎮圧。ルイ14世は1661年から親政を開始し、財務総監コルベールが重商主義政策を展開した。この時代、王の手足として働いた行政職を官僚という。
ルイ14世治世下には、パリ南西の地にヴェルサイユ宮殿が建造されて華やかな宮廷生活が営まれ、フランス絶対王政が全盛期をむかえた。彼は「太陽王」とよばれ、「朕は国家なり」と称したといわれる。また、ルイ14世は軍隊を強化しスペイン継承戦争など積極的に外征を行ったが、ほとんど成果がみられず財政難を招いた。スペイン継承戦争の講和条約であるユトレヒト条約では、ハドソン湾、ニューファンドランド、アカディアをイギリスに割譲。イギリスはスペインからジブラルタルとミノルカ島も得た。さらに、ナントの王令(勅令)を廃止(1685)したため、新教徒の商工業者が国外(特にオランダとドイツ)に大量亡命し、フランス経済は打撃をこうむった。
4. ドイツの動き
(1)三十年戦争(1618~1648)
▲ウェストファリア条約
1618年、ボヘミアで新教徒(スラブ系チェック人が中心)がハプスブルク家のカトリック化政策に対して反乱を起こし、三十年戦争が始まる。新教側ではデンマークやスウェーデンが、旧教側ではオーストリア、スペインが中心となった。また、旧教側では傭兵隊長ヴァレンシュタインが活躍し、スウェーデン国王のグスタフ=アドルフと戦った。フランスは国教はカトリックであるにもかかわらずハプスブルク家の勢力削減を狙って新教側について参戦、この戦争はブルボン家とハプスブルク家の争いへと変化し、戦争の争点が宗教的対立から国家間の利害へと変化した。三十年戦争は1648年のウェストファリア条約で終結した。この条約でカルヴァン派が承認され、オランダ·スイスの独立も認められ、ヨーロッパの主権国家体制が確立された。ドイツは諸侯それぞれの主権が認められて分立状態が決定的となり、神聖ローマ帝国は事実上滅亡(帝国の死亡証明書と呼ばれる)。国内が戦場になり、傭兵による略奪も横行したため人口が激減し、国土が荒廃した。
(2)プロイセンの台頭
▲フリードリヒ2世
プロイセンは1525年、ドイツ騎士団領が発展してプロイセン公国となり、1701年公国から王国となった。フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(在位1713~1740)は、軍備増強や官僚組織の整備を進め、絶対王政の基礎を確立し、プロイセンはオーストリアにつぐ東欧第二の強国となった。1740年、次の王フリードリヒ2世(在位1740~1786)は、オーストリアの女王マリア=テレジア(在位1740~1780)がハプスブルク家の全領土を継承したことに異議をとなえて、資源の豊富なシュレジエンを占領した。そして、フリードリヒは、オーストリアの継承権を主張するバイエルン公や、フランス王らとともに、イギリスに支援されたオーストリアと戦った(オーストリア継承戦争、1740~1748)。1748年に講和条約としてアーヘンの和約が結ばれ、マリア=テレジアの継承権が認められた代わりに、プロイセンはシュレジエンを領有した。
数年後、シュレジエン奪回をめざすマリア=テレジアは、外交政策を転換して、フランスと同盟した(外交革命[2])。シュレジエンの奪還を目指して七年戦争(1756~1763)を起こした。フリードリヒ2世はイギリスの支援を受けて戦い抜き、63年にはオーストリアと有利な和平を結んでシュレジエンを確保し、ヨーロッパの強国の地位についた(フベルトゥスブルク条約)。
またフリードリヒ2世は、著書「反マキャヴェリ論」の中で「君主は国家第一の僕(下僕)」と述べ、思想家ヴォルテールと親交を結んだほか、啓蒙専制君主として産業育成、司法改革など上からの近代化政策を進めた。これは、プロイセンでは西欧諸国で改革の中心を担った市民層の成長が不十分であったからで、このような君主主導で改革を進める体制を啓蒙専制主義という。しかしその体制は自由農民を農奴化する農場領主制(グーツヘルシャフト)であり、ユンカーとよばれる地主貴族らが支えていた。
(3)近代化改革
オーストリアでは、女王マリア=テレジアがプロイセンと戦う過程で近代化的改革を推進。その子ヨーゼフ2世(在位1765~1790)も啓蒙専制君主として宗教面での寛容政策や農奴解放など、上からの近代化につとめたが、貴族層や領内異民族の反抗にあって挫折した。
▲ピョートル1世
5. ロシアの発展
①ロマノフ朝の成立:モスクワ大公イヴァン4世(雷帝、在位1533~1584)は中央集権化をすすめ、「皇帝」[3]を意味するツァーリの称号を公式に使うなど専制政治の基礎をつくった。彼の死後は内紛が続いたが、1613年皇帝にミハイル=ロマノフ(在位1613~1645)が選ばれ、ロマノフ朝が成立。農奴制の強化がすすめられ、1670~1671年にステンカ=ラージンの農民反乱がおこったが、鎮圧された。逃亡した農奴らは狩猟·牧畜·略奪などを生業とする自治的な集団を形成し、コサックとよばれた。
②ロシアでは、17世紀後半におこったステンカ=ラージンの農民反乱が鎮圧されたのち、ピョートル1世(大帝、在位1682~1725)が自ら西ヨーロッパを視察し、軍備拡張や商工業保護など西欧化政策を推進。ユリウス暦の導入も行った。また北方戦争(1700~1721)でスウェーデンを破りバルト海に進出、沿岸に新首都ペテルブルクを建設した。南方ではオスマン帝国から黒海につながるアゾフ海を奪った。さらに、シベリア支配を推進して、清朝とネルチンスク条約(1689)を締結し、スタノヴォイ(外興安嶺)山脈とアルグン川を清との国境とした。
③エカチェリーナ2世(在位1762~1796)は積極的な対外政策を展開し、南下政策を進めてクリミア半島をオスマン帝国から奪い、黒海に進出。また極東へ進出して、日本にも使節ラクスマンを派遣した。またヴォルテールと文通したり、百科全書派のディドロを宮廷に招くなど、啓蒙専制君主として学芸の保護、教育制度の改革、法律の整備などの近代化改革を推進したが、プガチョフの反乱(1773~1775)を鎮圧した後、反動化して農奴制を強化した。
★重商主義:16世紀末から18世紀のヨーロッパで支配的であった経済政策。世界経済の成長期にあって、保護貿易の立場に立ち、輸出産業を育成し、貿易差額によって国富を増大させようとした近世国家の管理経済。オランダ(アムステルダムは17世紀に世界金融の中心になった)·フランス·イギリスなどが中心。
★重農主義:国家において農業生産を重視する経済思想や政策のこと。18世紀後半のフランスの経済理論と政策。商工業は原料と食料品を農業に仰ぐからその発展は農業の発展にまたねばならぬとし,農業発展の必要を説いた。フランスの経済学者ケネーなどが主張。
★絶対王政:君主が絶対的権力をもって支配する専制的な政治形態。16~18世紀のヨーロッパで、封建国家から近代国家へ移行する過渡期に出現。王権神授説を背景に、常備軍と官僚制度に支えられ、経済政策としては重商主義をとった。市民革命によって近代国家へ移行。
★王権神授説:王権は神から国王に授けられたものであり、その権力は神聖で絶対的であるとする思想。絶対王政の思想的支柱となった。
[链接答案]
次の会話を読み、下の問い(1)~(4)に答えなさい。
よし子:昨年の春に亡くなったローマ法王ヨハネ·パウロ2世(JohnPaul II)は多くの業績を残していますね。
先生:そうですね。宗教的活動以外にも、冷戦期における(a)の民主化運動を支援したことでも有名です。
よし子:また、17世紀に地動説を唱え、宗教裁判にかげられた(b)の名誉回復も表明しましたね。
先生:そうです。しかしヨハネ·パウロ2世は、(c)的には(d)的で、安楽死や人工中絶には反対の立場をとっていました。
(1)下線部に関して、ローマ法王と最も関係が深い宗派は何か。正しいものを、次の①~④の中から一つ選ぴなさい。
①カトリック
②ギリシャ正教
③プロテスタント
④ロシア正教
(2)上の会話中の空欄(a)に当てはまる地域名を、次の①~④の中から一つ選びなさい。
①東アジア(Asia)
②東ヨーロッパ(Europe)
③中東(MiddleEast)
④西アフリカ(Africa)
(3)会話中の空欄(b)に当てはまる人名を、次の①~④の中から一つ選びなさい。
①アイザック·ニュートン(Isaac Newton)
②アルベルト·アインシュタイン(AlbertEinstein)
③ガリレオ·ガリレイ(GalileoGalilei)
④レオナルド·ダ·ヴインチ(Leonardoda Vinci)
(4)会話中の空欄(c)、(d)に当てはまる語の組み合わせとして最も適当なものを、次の①~④の中から一つ選びなさい。
①道徳 保守
②政治 革新
③科学 保守
④道徳 革新
(「2006年度日本留学試験(第2回)試験問題[EJU]」)
[1]フランスの中世末から絶対王権確立期までの身分制議会。聖職者·貴族·平民の三身分の代表者からなる。
[2]ハプスブルク家が長年敵対関係であったフランスのブルボン家と同盟を結んだため「外交革命」という。
[3]ロシアはギリシア正教を受容し、コンスタンティノープルの陥落によって東ローマ帝国が滅びると古代ローマ帝国、東ローマ帝国の後継者として「皇帝」の称号を使用した。
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